『人生が透明なガラスの瓶だとして』


 新年あけましておめでとうございます。

正月三が日は穏やかに過ごして、やっと年賀状を大体発送して、制作モードに入る中、ふと、「仕事始め」という言葉をTwitterで目にして、ふっと胸に暗い記憶が浮かんできた。


「仕事始め」。(one of the) most-hated-word. 

会社勤めをしていて、きっと仕事始めの前日がすごくつらい人はいるんじゃないかと思った。(もちろん、年末年始も変わらず働いている方もいる。この感覚は、勤め人だった時の記憶を思い出したものだ。)


1月の始めというのは、不安や恐怖でいっぱいになってしまうシーズンという人もいるんじゃないかと思う。

始まってしまえばどうにかなっていくのだけど、その「どうにかなってしまう」ことは、決して好きで、ダメージ無しでやっているわけじゃないということは、自分自身に戻っている休みの間はよくわかる。会社に行きたくなくて、休みが終わってしまうことが耐えられなくて、どう頑張っても1日を不安に満たされて過ごしてしまう。

今年の場合はさらに緊急事態宣言がまた出る方向とあって(そして細部は知らされず)、一体どうなってしまうんだろう、となった方もいるんじゃないかと思う。


勤め仕事をしていた時、仕事に行きたくなくて、途方もない、不安なのかなんなのかもわからない、強いていうなら「恐怖」としか呼びようのない感情でいっぱいになっていたことがよくあった。

それに気づくたび、はっとした。

勤め仕事をしながらアーティストとして活動をするということは、時間や体力、精神的に、どうしてもままならない時もあった。限られた時間。限られた一生。

どうにかして、そのままならなさを、何か心地よい自由なものに変えていけないかと模索していた。


当時、私の感覚として、人生は一瞬一瞬がコマ撮りフィルムのように続いているものだという感覚があった。その中で、一コマ一コマが自分にとって心地よい、気分の良いものにできないかと、結構真剣に考えていた気がする。

だけど気づく。あ、この一瞬は恐怖のフィルターがかかっている。

この一瞬も。

次の瞬間も。


いかんいかんと気づいて、さっと切り替えるというようなことをやっていた。当時はすみかと会社が比較的近く、時々歩いて帰っていたのでそういうことを歩きながらよく考えた。


だけど、気づけばまた「恐怖」に支配されている。恐怖、あるいは「やるせなさ」。あるいは「ままならなさ」。屈辱。不安。なんでもいい。

何かしら、望まないもの。

自分というものが、透明なビンだとしたら、そこに詰まっている液体は、あまり美しい色をしてはいなかった。それがプールだったら絶対に浸かりたくないような色や温度をしている。だけど私たちはそれを内側に溜め込んでいたりする。

そう気づいた時に、私はこれやだな、と思い始めた。

人生が一瞬一瞬の連続であるならば、今すぐこのビンの水を替えたい。

そうして代わりに何を注ぐだろう?


よしもとばななさんの小説がとても好きで、何度も枕元に置いて読んだ本がある。

『アムリタ』。

サンスクリット語で、神々が飲むという甘い水。美しい色をしていて、喉を潤し、身体を満たしていく。

どうせ内側にたたえるならば、そういう水が良くないか?


そんなふうに感じて、透明なビンの中を「アムリタ」が満たすのを想像した。光に照らされたガラスのビンは見ているだけで美しく、光にかざしてその淡い色合いやかげを楽しむ。そういう瞬間が、続いていく。ある瞬間も、次の瞬間も、その次の瞬間も。それが人生を作っていく。



以前She isで、『「今はもう大丈夫」バスタブのイメージワーク』という記事を寄稿したことがある。



イメージワーク(としか言いようのない)という表現を、どう受け止められるかなと内心結構どきどきしたのだけど、幸いなことに好評で、今もあの記事の話をしてくれる人がいる。

今回のこの透明なビンの話も、私が今も時々思い浮かべる「イメージワーク」だ。無料で、個人的で、大したことなくて、やってもやらなくても害はない。

だけど、もしこの何気ないお話で、少しでも楽になる人がいたら嬉しいなと思う。

コロナのこと、社会の変化は続いていく。

その中で泳ぎ続けられるように、工夫して、声と顔を上げて、そうした時に生まれる、意志のようなもの。

それを発しあって、つなぎあえればいいなと思う。なぜなら私もまた、そうやって誰かが発しているものに、いつも助けてもらっているから。





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