てふてふ

うつくしい蝶のおはなし。

お日記です。

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最近いろんなことがあった。
数日前、部屋の上の階から水漏れがあって、商品や家財道具が色々汚水で濡れてしまったのだ。
人生初の漏水被害。
これを書いている今朝、ありったけの布類と差し入れられた紙おむつが散乱する部屋をようやく片付けられた。

なんでここまでかかったかというと、完全にダウンしてしまっていたからだ。

震災の後に比べ物にならないほどつらい思いをしている人たちがたくさんいる中で、
我ながらひよわでしょうがないのだけれど。
ちょうど入稿しないといけない締切が終わったばかりだったこともあり、体力も気力も底を割ってしまって、ベッドの無事だった部分にまるまり、起き上がろうとしてもぐったりと動けないけれど、部屋にはいたくない……という状態になってしまった。

(書いていて暗い!)

今思えば立ち上がり、さっさと片付けてしまえば良かったのだけど、まあそれができなかった。
なにせ、眉毛ペンシルを持つ手すら重かったのだ。

最近いろんなことがあった、と最初に書いた。
それはずっと続いていて、たぶんもうちょっとかかるし、まだまだずっと続くのだと思う。

文章とイラスト、という新しいことを本腰を入れて始めて、20代のほとんどを一緒にいたひとと別れて、ついでにずっと住んでいた部屋が濡れた。

自分の根本的な部分が全部一端変わる、というような、いろんな事が起こったのである。
そんな中で、ふいふいと日々気分よくいるのは結構ちからが必要なことだ。

「ちから」とは、エネルギーであり、パワーであり、筋力であり、誰かの支えもいる。
今回動けなくなったのは、たぶんそのへんのすべてのパワ〜不足になったんだと思う。

先の見えない中で何かひとつを信じて行う、というのはそういうパワーがうまく供給される仕組みを自分で作っとかないと、今回みたいなことになる。
恐れや不安、自己否定は結構電池(体力)を食うのだ。

一昨日、そんな重たい身体を引きずって、西荻窪に行った。
まだ動きたくなかったけれど、とても晴れていたので、どこか近く、外に出たかったのだ。
吉祥寺に最初行ったけれど人が多すぎて、街に弾き飛ばされるようにして、人のいない西荻窪に向かう。

この間連れて行ってもらったマフィン屋さんに行ったらGWで臨時休業で、その後あてどなくふらふらとさまよう。
その辺を歩いている幽霊と変わらないくらい目的なく歩いた。
西荻窪は好きなので、ただ歩いているだけでもなんとなく気持ちいいのだ。

北口にある、なんとなく入った古本屋さんに一冊の本があった。

 

M
 
『もっとなにかが…』

気になったけれど、絶版らしく、割と高い。OP袋に入ってて、中身もよくわからない。迷ったけれど、山田詠美さんのエッセイ本だけ買っていったんお店を後にした。
その後もふらふらと日光浴がてら散歩して、やっぱり気になるわと思ってお店に戻ってその本を買った。こういう具合の時になんとなく出会って気になった物は買っといた方が良いのだ。

1983年にアメリカ人の女性によって書かれた絵本。
最初はただ葉っぱを美味しく食べて大きく育っていた一匹の毛虫が、ある日ただ食べてるだけじゃ退屈になって、『こうして生きているなら、もっとほかになにかあるにちがいない。』と思って旅を始めるところから始まる。
毛虫はある日、他の毛虫がどこかへ向かっているのを知る。
そこには大きな柱があって、そのてっぺんは見えない。そこにもしかしたら探していたものがあるかもしれないと思ったが、近づいてみると、その柱は上に上ろうとする毛虫の集合体だった—という感じではじまるお話。

皆、その先に何がしらないけれど、「それでも何かがあるはず」と皆は上っていく。
毛虫もまた、上り出す。
他の毛虫を踏みつけにして、自分もまた踏みつけにされてそれでもしがみついているうちに、毛虫はある一匹の毛虫(女の子)と出会った。その毛虫を踏みつけにしたことを悔やんだことをきっかけに、二匹はその柱を下りて、愛し合い幸せな日々を過ごす。
それでもまた、毛虫は「やっぱりほかに何かある」と、もうあんなところには戻りたくないと頼む嫁の毛虫を置いてひとり、毛虫タワーに戻る。(ばかなやつである)

泣き暮らしていた毛虫の嫁は、ある日、さなぎを作る別の毛虫に出会う。
そこで禁断の恋が始まる…わけもなく、さなぎは、彼女に「君もちょうになれるんだよ」と教えた。


『飛びたいなあ と強く願うことだよ。
 そのうち 毛虫のくらしを捨てても
 いいと思うようになるんだ。』

『死ぬ っていうことですか?』
 空から落ちてきた三匹の毛虫のことが 心に浮かんだ。

『ちょっと違うんだな。死んだように見えても、本当はまだ生きているんだ。
 生命が変わるだけで終わってしまうのではないんだ。
 ちょうにもならずに死ぬのとはずいぶん違うと思わないかい?』

『いいかい、まずまゆをつくるんだ。隠れるように見えるけどまゆの中へ逃げ込む訳ではないんだよ。このまゆが姿を変える仮の住まいなのさ。
 これが大仕事さ。二度と毛虫のくらしにもどれないんだからね。
 自分が見たって、だれが見たって取り立てて変わったことはないようだけどいつのまにかちょうになりはじめているんだ。
 ただとても時間がかかるんだ!』


その後、旦那毛虫のほうは虫の心を無くして冷酷に毛虫タワーをのぼりつづけ、最終的に……
いややっぱりネタバレになるので書きません。
(読みたい方はお貸しできればお貸しします。)

私は好きだった。(手放しで「好き!」ではない)

その後、友人と一緒に飲みにいった。『物件を探したい』と言い出した私と一緒に夜の西荻窪を歩いてくれた友達に、ふとこの絵本のあらすじを説明したら酷評された。

「結局蝶になるのとタワーを上ることのどっちがどう幸せかなんて、そんなに単純化できるものか。それに、ただ食べて一生を終える人だってたくさんいるだろう。それを頭から否定するのか。それに、話がつまらん。」

つまらんというのはたぶん、私の説明がド下手だったせいだと思う。作者の方ごめんなさい…
それ以上に憤りを感じていたようであったのは、恐らく私が語るそのあらすじの中に「意識の高い上から目線な自己実現思想感」を、野に生きる彼女は感じ取ったのだろう。
(私も若干その類いか?と思いながらちょっと注意しながら読んだので、なんとなくそれもわかった。)

寓話なので、色んな読み方ができる本だ。
この本は、たぶんちゃんと距離をとって読んだ方が良い。
あまりにもそれっぽいので、自己啓発や自己実現、という言葉にすぐまとめてしまいそうになる。それよりも、もっと遠くから目を細めるようにして良く見た方が良いと思った。

先っちょの無いタワーをのぼる人生もあるんじゃないか?と思いながらも、
それでもやっぱりこの本は、蝶になることの意味を信じて描かれたんだろうと思う。

私が途中まで疑いながらも最終的にああこの本好きだなと思ったのは、
『蝶がいなければ花も咲かない』
その一言があったから。

『ちょうになると本当の愛がわかるんだよ。その愛から新しい生活が生まれてくるんだ。ただ抱き合っている毛虫よりもずっとすばらしいことなんだよ。』

ちなみに、ただ抱き合っている毛虫の姿は、この絵本で本当に美しく、この世の幸せを凝縮したように描かれているので、多分作者は、ただ抱き合うことの素晴らしさをすごく知ってると思う。
その上で、「愛から新しい生活が生まれる」、というのは面白いな、と思った。
そして、最近つらくてダウンしていたこの日々も、もしかしたら、さなぎを作っているんだ、というイメージでいたらいいのかなと思った。
すぐにエネルギー不足になるのも、疲れるのも、当然だ。
中身でぐるぐる変革を迎えている。

そういうふうに、思っとこう。

長くなってしまった。
てふてふ。

↓一番好きなページ。ただ抱き合って愛し合う毛虫たち。
 
 


↑全然関係ないけど横浜関税局?のマスコットらしい。可愛すぎません?


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