表現することを忘れてしまった人たちへ /『溺れるナイフ』『おとぎ話みたい』上映感想

土曜日、ポレポレ東中野で、山戸結希監督の『溺れるナイフ』『おとぎ話みたい』凱旋上映を観に行ってきた。
山戸監督の『溺れるナイフ』は、去年初めて予告編を見たときに、なぜかこれは見なきゃいけない映画だと思っていて、でも夏の間は結局どうしても行けなくて、今回、願ってもない上映。

今回は、オーディオコメンタリーということで、映画と同時に生で監督とポレポレ東中野の方のコメントが入るというものだった。

初めて観る人、と手を挙げると結構何人もいる。
それを見て、山戸監督ははっとしたような顔になった(ような気がした)。
なんとなくその気持ちが伝わってきたような気がした。
初めて観る映画が、純粋に映画という形の鑑賞にならないこと。

トークの途中で、山戸監督は、まるで言わないことは不誠実というかのように言った。

「どちらが健全なんでしょうね、説明してしまえることと説明できないものがあること」

本に後書きを書くか書かないか、どこまで説明してしまうのか、というのと同じ悩み。
多分、もし、初見の人が、映画でコウちゃんや夏芽が今発しようとしたセリフよりも、劇場でのコメンタリーの方を聞きたいと思ったら、そしてそのコメントをもってふーん、としてしまったら、それは多分映画として負けだということなのかもしれない。

でもやっぱり、私の中で、あの日あの場所であの形で観られたことは、ハプニング的であっても、思いがけず訪れた恩寵のようなハプニングだった。全て知った上でもう一度選べるとしたら、何度選べたとしてもあの日のチケットを買ったと思う。

耳を澄ませながらコメンタリーが続いていく中で、ポレポレ東中野の方が「監督、今どこにいるんですか?」と呼び掛けた。
フッと気配を感じて隣を見ると、山戸監督はすぐ隣にいた。
階段を上がってきて通路に座り込んで、マイクをもって話していた。

不思議な感覚。
映画の世界、オーディオコメンタリーの世界、そして、
これだけのものを作って形にした人が隣にいるこの世界。
雑踏やパーテイーの中でふと一人耳を澄ませる時のあの感じのような、聴覚じゃない部分で全部受け取るような感覚だった。

そんな中で入っていった、映画の世界。

美しかった、ちゃんとそこには誰かが生きた世界が成立していて、それを描こうとする確かな目線があった。
途中で夏の夜の風の湿気や剥き出しの肌が肌寒い感じ、太陽が顔に当たる感じを思い出すみたいだった。

菅田くん演じるコウちゃんと、小松菜奈ちゃん演じる夏芽。
いつか自分を簡単に飛び越していく女の子に追いかけられて、そしてそんな子だからこそ好きになる感覚ってどんなものだろう。
そりゃあそりゃあコウちゃんは夏芽といたかっただろうな、と思った。
でも夏芽は遠くに行くべきで、コウちゃんは頭が良いからこそ、その未来に自分がいない、いられないこともわかっている。
本当に、手紙を書き続けるような恋。過去にずっと照らされるような、過去からの光を受けて、ずっと今を生きていくような。

「おとぎ話みたい」、とても楽しみにしていて、観られて本当に良かった。

「踊りとは一番醜いこと。体を売り物にするということだから」

踊りや、表現。どうしようもない自意識。
自分にはできる、こんなもんじゃない、という感覚があって、それをコントロールなんてできない。
私ももうずっと、自分のそう言う自意識が嫌で、なんとかしてなだめたり隠したりしようと思っていた。醜いから。

そんな自意識や浅ましさが行き詰まりすぎてどうしようもなく醜いままで、何よりも代えがたいほど美しくなる瞬間が描かれていたような気がした。
祈りや希求として存在すること。
全てを超えて、踊り続けること。

そんなことを思った。



最後のトークは、いろんな意味で忘れられないものになった。

トークの途中で、満足がいくものにはならなかったということを語りながら、泣き出した監督。
「映画は世界よりも大きいと思っているけれど、この映画はまだそうなっていない。全てのカットでもっと良くできる、もっと良くなると思いながら作っていた。こんなに悔しいことはない。傷だらけの溺れるナイフが、これからDVDになって、スクリーンでかかって更新される。でも、もっと素晴らしいものが生まれる。私はこの映画を観て、女の子が、"私はもっといいものを作れる"と思ってくれる方が芸術にとって素晴らしいことだと思う。公開して良かったと思う」

というようなことを、涙まじりに、でも絞り出すように言っていた。

こんなに若くて可愛い人が、こんなにもう覚悟が決まってるんだ、と思い知らされたような気持ちになった。

私はそれを聞いていて、ふと悔しくて悔しくてたまらなくなった。
それは、自分に対して。
こんな風にして作品を作っている人がいるのに、私は何をしてたんだろうと思った。
怒りって、今現代社会の生活の中で一番都合の良くない感情で、気付かないうちにいつの間にか、いい感じの牛のように優しく、穏やかに、馴れて、自ら鈍感になる。
怒りを忘れていた自分に、そのことに対しても、久しぶりに怒った。

私はちゃんと、表現者として研鑽できていただろうか?
孤独が怖くなって、失敗が怖くなって、成功を求めて、安心を求めていなかったか?
何を綺麗にまとまろうとしていたんだろう、そういうのが嫌いだとずっとわかっていたのに。
ものすごく恥ずかしく思って、悔しくなって、悔しくて悔しくて悔しくて映画館を後にした。

それからもずっとその時間は続いていて、その時間の中で、あの夜に思ったことを一度自分の中に全部溶かしてしまって、今また制作に戻っている。

溺れるナイフは、おっさんおばさんが作った、決めつけとノスタルジーにまみれた気持ち悪くて浅い青春映画じゃない。

社会の中で恥ずかしくない人になろうとした人へ、
社会の中で良い人になろうとしている人へ、
身の丈を知りたがる人たちへ、
踊るのをやめてしまった人たちへ、
いつの間にか表現することを忘れてしまった人たちへ。

いろんなものが炙られて、揺さぶられる映画だったと思う。

次の作品も本当に楽しみ。



このMVをずっと聴いてる。おとぎ話みたいの後日談でもあるらしい。
あのポレポレのスクリーンで、見られて良かった。
完全に入り込んだみたいに、一緒に踊ってるみたいにグルグル廻った感じになった。


映画も見てないうちに山戸監督にすごく惹かれたきっかけ、この文章も是非読んでほしい。
映画『溺れるナイフ』公開前夜に綴る山戸結希の軌跡 text by 小原治

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