素粒子

あそこに行けば大体空いているだろう、というカフェで、友達を待っている時間に、ホットレモネードを飲んだ。
顔がブルブルッとひくつくくらいの、えぐみのある苦味と、酸味。嫌いじゃない。
健康志向というわけではまったくないけれど、どちらかというと土着なものが好きで、できればより素材に近いものが良いなと思う。

 

夜、支笏湖からの友人達と、二日ぶりの再会。またしても、行きつけのカンボジア料理屋に行った。
甘い・辛い・うまい・甘い・ココナッツ・辛い・エビ・うまいのコンボがずっと続く。

自分が好きな味、それは自分で作る料理の趣味にも当然通じるものがある。
自分で料理をする時に半ば無意識に出そうとする味わいや、追求する仕上がりのようなものがあって、それと一致する料理に店で出会うことがある。
「自分で作れそう」だから「この料理はたいしたことない」ではなくて、
「この料理はたいしたものだ」そして「なんとなく自分でも作れそうな気がする」という種類の美味しさ。

R君が美味しいと食べながら「これ、作れそうだね」と言った言葉で、もしかしたらそういうことなのかな、と思った。

自分で作れるかもしれない、と期待させてくれる地平にある料理は、「これを再現するとしたらどうすればいいんだろう?」ということも想像できるのでそういう楽しさが増す。
(実際できるかどうかは置いといて。)

一方、そんなに食べに行く機会はないけれど、「明らかにこんなもの自分じゃ絶対無理だ」というような、突き抜けて粋をつくした料理ももちろんある。

食べながらその作り方を真剣に想像してしまうものも、腕を磨いてこんなすごいものを振る舞ってくれてありがとう、という気になるものも、どっちも良いものだ。


お腹いっぱい食べた後、代々木から千駄ヶ谷の方に皆で歩いてミルクティーを飲みに行った。
十字路の角にあるそのお店は、とても美味しかった。
タピオカミルクティーからタピオカを引いて、でもアイスティーの一番美味しい味をキープして、そこにちょうど良くミルクが注がれたアイスミルクティー。

皆、タピオカミルクティーを引き合いに出しながら、「タピオカミルクティーのタピオカって要らないよね」と言っていて、オーストラリア留学時代に灼熱のシドニーで遊んでいた頃、あちこちにあるタピオカミルクティーの類いを主食としていた人間としては異議を唱えにくかったけれど、ふと思い出した。

あの頃は、美味しいものは美味しくて、ただタピオカがあるだけで幸せで、味がどうだったかと思い出すと、「キラキラしていた」というような感想になる。
暑くて、煮えたぎるようで、目が眩むような日射しの中を薄いコットンの肩掛けカバンにノートとペンと水だけ入れて(後はお財布とカメラか。)、ただひたすら歩いていた夏の日。
Bubble Teaと呼ばれていたタピオカミルクティーを注文して歩きながら飲むと、冷たくて甘く、染み込んで行く感じに癒されていた。
何より、あの気安さとアジアの感じは、シドニーの夏の気分そのものだった。
そこにいることが幸せで、ただただ美味しいから、具体的な味がどうだったかなんて覚えていなかったんだなと思う。

10年経ち、今は日本、東京で、冬の入り口みたいな夜に、少しずつ味を確かめるようにアイスティーを啜っている。
待っている間に、一緒にいた人たちは、しゃがみこんで知らない人の犬を撫でたり、立ったまま話をしたり、笑い声が路上に響いたり。美味しい飲み物を求めてちょっと立ち寄った人たちそれぞれがリラックスしてその瞬間を味わうようにしていて、そんな姿の向うには、明るい東京の夜空と、雰囲気のある神社があった。

 

10年前のあの頃とは違って、今の私は味を確かめて、キラキラしていたよ、ということ以外もちゃんと覚えておこうとしている。
そんなふうに味はどうなんだろうと探りつつで飲んだミルクティーは、それでもやっぱり美味しかったし、冬の夜の空気はやっぱり、きらきらした粒子に満ちていた。


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